2005/8/30(火) 08:29
伊丹十三監督の映画『ミンボーの女』では、企業に難癖をつける暴力団の撃退法が紹介されていた。隠しカメラのある会議室に誘導する、相手がコップ1つでも壊した場合は「器物損壊」で即警察に通報する、など。

このような「民暴対策」が徹底するのは90年代になってからのことだ。80年代までは、解放同盟も暴力団さながらに暴れ回っている。1969年の矢田事件、1974年の兵庫県・八鹿(ようか)高校事件、1989年の奈良県・天理西中学校事件などがあるが、いずれも裁判で有罪判決を受けている。

◆『同和利権の真相1』(宝島社文庫) p206
 こうした暴力事件は、74年11月22日、兵庫県八鹿高校(養父郡八鹿町)で頂点に達した。
 校内に部落解放同盟研究会の設置を認めなかった八鹿高校の教師68人(ほぼ教職員全員)に対して、解放同盟兵庫県連メンバー数百人が襲いかかり、13時間にわたって「糾弾」と称して集団リンチを加えた。これにより56人が重軽傷を負い、29人が入院したという教育史上例をみない事件である。

この事件は最高裁まで進み、1990年に解放同盟員13人の有罪判決が確定している。賠償命令は3000万円だが、懲役は半年~3年でいずれも執行猶予つき。

さすがに傷害事件ではおナワになるが、解放同盟の得意中の得意は「コトバによる威嚇と暴力」だ。役所と学校は、彼らのいいお得意様になっている。いったいどのようなプロセスで彼らの圧力に屈していくのか。以下、学校を糾弾するときの事例である。

1)公的・私的を問わず、教師の差別発言を収集する。
2)校長室で問題の教師を呼びつけ「確認会」を要求する。
3)非を認める、または矛盾が指摘された場合、「糾弾会」に発展する。
4)各糾弾会は2~6時間、連帯責任で全校職員が出席、十数回に及ぶこともある。

校長が自殺するに至った1999年の三重県・松阪商業高校事件では、次のように展開した。

1)松阪商業高校に勤める弓矢氏(教員)が、自宅近くで隣人と「私的な会話」をかわしたが、これが密告によって「差別」の嫌疑をかけられる。
2)2ヵ月後に解放同盟の3人が校長室を訪れ、「確認会」の開催を約束させる。
3)全職員を巻き込んだ「糾弾会」が1年近く、定期的に続く。
4)校長が自殺。

「私的な会話」から2ヵ月以上も経ってから、ある日突然押しかけられることもあるのだ。このときに気の弱い人は「謝れば赦してもらえる」と考えることが多いが、謝れば当然の結果として、また曖昧で矛盾した受け答えをした場合も、延々と糾弾会が続いていく。この「糾弾会」は、解放同盟が検事と判事の両方を務める「弁護士のない人民裁判」なのだ。

私的な発言も逃さない連中が、公的な発言を見逃すはずがない。マスコミに対する「コトバ狩り」も大漁だ。「麻薬の値段が上がったら、ニューヨークの街が屠殺場になる」という筑紫哲也の発言に、屠場組合と解放同盟が牙をむいた。

TBS筑紫キャスター「屠殺場」発言事件
 第1回大衆糾弾会は、89年11月22日両労組員ら200人が参加してJR品川駅前の芝浦食肉市場で開かれた。
 席上、筑紫氏が差別の意図はなかった旨釈明したが、参加者からは,激しい罵声や怒号が浴びせられた。糾弾は午後いっぱい、4時間にわたって続けられた。まさに長時間の「拷問会」であった。
 以後、糾弾会は12月13日、90年1月10日など、90年8月1日まで、毎月1回、計9回開かれた。4、5回までは第1回同様、「人格が破壊されかねない」ほどの激しい糾弾会となった。
 あるときは「差別とは何か、いってみろ」といわれ、あまりにも漠然とした問いに戸惑っていると、「なぜ黙っているんだ。いえないのか」とやられ、考えがまとまらずに何かをいうと、次から次へと揚げ足とりで突っ込まれる。何をいっても吊るし上げられる、一時の過激派学生の大衆団交と同じだったという。

筑紫哲也のように、のらりくらりと答えていれば、ズダズダにやられてしまうであろう。筑紫哲也はこのときにすでに「人格が破壊」されていたのかもしれない。後のオウム事件報道で「TBSの死」を招くのもムベなるかな。彼が『朝日ジャーナル』時代に煽りまくった「過激派学生」まがいの連中に糾弾されて、さぞ本望であったことだろう。